「真木よう子コミケ参加問題」は、思わぬ形に収束しようとしている。
正直、色々な側面がありすぎて、一体何を言えばいいんだろうと思う。でも、私は自分の考えをまとめるのに大分時間が掛かる質らしく、議論らしい議論はもうすでに他の人達がやっていたし、事の真相については私の調べられる範囲を超えている。何より、この問題についてずっとぐるぐる考えているせいで、途中でほっぽっている二次創作やゲームが進められないじゃないか。ということは、この気持ちをまとめて燃やして供養しないといけない。よしよし。

というわけで、広く論理的な視点ではなく、あくまでもミクロで個人的な感情に焦点を合わせた記録を残しておこうと思う。個人の感情の記録なので、特にオタクでない人に分かりやすく注釈を入れている訳でもなく、読む非オタクがいるかは知らないけど、分からない用語は適宜調べてちょうだいという姿勢。あと見出しもつけてないから読みにくくてごめんな。


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1 はじめに

すでに界隈では過去のことになりつつありますが、2017年5月下旬に、立命館大学の院生によるpixiv小説を使用した論文事件というものがありました。その騒動から1ヶ月以上経ちますが、学会、大学、pixivからの音沙汰はありません。

その間、個人的に色々考えてはみたものの、要約のみで論文の本文を読んでいませんでした。しかし、今回本文を読んでみたところ色々と印象が変わったので、自分なりの考えをここにまとめておこうと思いました。ですので、新事実が明らかになったりすることはありません。あくまで私の考えを整理するためのものです。
なお、私の自己紹介としては、学部で卒論を書いたオタクです。今回の件は、私の興味のある複数の分野にまたがる話題ということです。


※皆殺しルートのネタバレあり

真・女神転生IV FINALを、絆ルートに続き、皆殺しルートもクリア。展開としては好きな部類でしたが、絆ルートよりも疑問に思う部分も大きかった。皆殺しに至る主人公・ナナシの動機、心境が謎なんです。

ある選択の結果、ナナシは仲間全員を手にかけることになりますが、その動機を想像するのが難しい。というのも、ナナシは無口主人公なので何を思うかはプレイヤー次第ではあるのですが、基本的に身近な仲間には恵まれていて、彼らを殺す動機が薄いように思えます。

加えて、今作では選択肢による属性値がNeutral-LightとNeutral-Darkの2種類存在していますが(N-L選択肢は主に仲間を気遣う・思いやるもの、N-D選択肢は仲間を省みないものが多い)、どのルートへ進むかは最後の分岐での選択にかかっていて、属性値によるルート決定は起こりません(どちらかに偏った状態で正反対のルートを選ぶとペナルティはある)。つまり、仲間を大事にする発言を繰り返していても、皆殺しを選択するナナシという人物像もありえることになってしまう。選択次第では、ともするとナナシという人格がとっ散らかって一貫性のないものに思えて、いまいち理解・共感しにくいのです。

そこで、仮にナナシをある特定のパーソナリティを持った人物だと仮定して、ストーリー上で疑問に思った行動や動機について、一本筋が通ったキャラクターとして考えてみてはどうだろうかと思いました。

■仮定するパーソナリティについて

ある特定のパーソナリティとは、いわゆる「サイコパス」。定義や用語に違いがある点もありますが、サイコパス、反社会性人格障害(反社会性パーソナリティ障害)と呼ばれる人々は大まかに次のような特徴を持っています。社会的な規範を守らない。責任を取らない。病的に嘘をつく。自分の利益・楽しみのために人を騙す、利用する。かつ、良心の呵責や罪悪感に全く悩まされない。更に、自分がそういったまるで血の通わない人物であるということを上手く隠すことができる。つまり、利他的な行動や信頼によって成り立っている人間社会にとっては、異質で、他者を食い物にする危険な存在と言えます。

※精神障害の分類のスタンダードのひとつ、DSM-IVでは、18歳未満であれば反社会性人格障害の診断には当てはまりません。また、キャラクターをこのような人格だと決めつけてしまうことにはかなり慎重になるべきなので、ここでは「サイコパス的な傾向」程度の意味として考えてもらえれば。

一般的に連想されるような、凶悪な犯罪を起こすサイコパスは別として、大抵のサイコパスはとても映画やドラマに出てくるような悪人には見えないことがほとんど。むしろ、彼らは人を惹きつけるような魅力的な人物であることも多々あります(そう言えば、クリシュナがナナシについて、人間社会に紛れ込んだ異分子といったような比喩を用いていましたが、サイコパスの表現としては言い得て妙)。しかし、彼らは常にスリリングな刺激を求めていて、その欲求を満たすためだけに常人では考えつかない行動に及び、それはしばしば他人を傷つけるという結果になることを念頭に置いておく必要があります。

続いて、作中の行動・動機を「サイコパス(的傾向)だった」と仮定して、いくつか考えてみたいと思います。

■皆殺しルート分岐後

まず、皆殺しルートでの最も衝撃的なシーンのひとつだと思われる、それまで自分に信頼を寄せていた仲間と袂を分かち、彼らを皆殺しにするイベントについて。ナナシはなぜ仲間を裏切ったのか、その時何を考えていたのか。

作中では周囲の人間から非難されることこそあれ、仲間たちは基本的にナナシを信頼していたことが伺えます。――というか、N-D選択肢を選んでも、都合よくN-Lに解釈されることもしばしば。酷い言葉をぶつけても、それによって仲間たちが瓦解することはありません(多分にストーリー進行上の都合でしょうが、ここではそれも含めて考えてみたいと思います)。彼らとの絆、時に盲目的とも取れる信頼関係を前提にすると、殺す理由がないか、例え目的のためとはいえ殺すことを躊躇するのが人としては普通です。

しかし、ここでナナシがサイコパス(的)だったという仮定を元に考えてみると、割に無理なくその動機が理解できます。ただ単に、ダグザの言う世界を見てみたい、人間を超えてみたい。「それだけ」のために、自分を信じている仲間を裏切り殺すことに、躊躇することも気が咎めることもない。人が苦しむのを見るのが非常に刺激的だからそうするまで、という動機は十分ありえます。

それだけに留まらず、今まで仲間(東京の人々も)から信頼を勝ち得てきたのも、ナナシがそう振舞っていただけ(しかもかなり効果的に)だとしたら。幼馴染だから、同じ境遇だから、助けてくれたから、アキラの生まれ変わりだから。そういうものをちらつかせながら巧みに信頼を得て、時には同情すら誘ったかもしれない。でもそれらは全て彼の本性を隠す嘘というわけです。

信頼を得てしまえば、時々酷いことをしたとしても周りの人間は好意的に解釈してくれるでしょう(「今日は機嫌が悪いんだろう」「あの人に限って何かの間違いだ」というように)。

■ダグザのため?

ちなみに、皆殺しルートはダグザの望みがそのまま叶えられた世界ですが、それではナナシはダグザのために、仲間を裏切るような行動に及んだのか。その方がまだ幾分理解の余地があるかも知れませんが、サイコパスは徹底的に利己的であるという点から考えると、ダグザのためですらない。

ダグザはYHVH以前の本来の姿に戻ることを切望していました。(方法はともかく)あくまで人間の救済にこだわり続けたクリシュナとは違い、人間がYHVHの枷から解放されることは、ダグザの最優先目的からすると「おまけ」といったところでしょう(人間が超人となることを望んでいるのは言葉の端々から伺えますが)。

だから、ダグザは何よりもまず自分の望みを叶えるために人間であるナナシを利用したわけですが、今回仮定したナナシは、そのダグザをも利用したと言えるかも知れません。本来であれば死ぬはずだったナナシを蘇らせ、力を与えて、神となった暁にはダグザは一自然現象としての姿に戻りました。新しい世界の頂点に立ったナナシの元には、もはや道具同然の人間しか残っていません(そもそもサイコパスにとっては他人は道具のようなものらしいので、実質変わりないのかも)。邪魔者はもうどこにもいない。

■シェーシャ討伐と徳川曼荼羅解除

次に、オーディンの奸計によってクリシュナの封印を解いてしまうという、東京の人間にとって甚大な被害をもたらす行為の後に取った行動とその動機を考えてみます。ナナシは多神連合の切り札であるシェーシャを討伐し、東京の人外ハンターを無力化した徳川曼荼羅の結界を解いています。これらはナナシの思惑と矛盾した行動なのでしょうか。

ナナシはクリシュナを復活させたことで、裏切り者の嫌疑を掛けられ、ハンター商会から出頭要請を受けてしまいます。そして、ハンター商会が彼が裏切り者でないことを証明するために命じたのがシェーシャ討伐でした。ここではナナシはどのような態度を取ったのか。

今回仮定したナナシからすると、信頼回復のチャンスを与えてくれるとは、あまりにも脇が甘すぎる。自分はあくまでオーディンにそそのかされた可哀想な子供で、嫌疑を晴らすためにも自ら進んでシェーシャ討伐を引き受けるというポーズを取ったのではないでしょうか。そして無事シェーシャを討伐したことで、ひとまず裏切り者のそしりを免れることができた。

また、徳川曼荼羅を解除することで、悪魔召喚が不可能という致命的な状況から人外ハンターを救い、ナナシは東京の人間から「期待の新星」とまで呼ばれ始めます。人々の熱狂とは対照的に、この時も人々を救うためではなく、それが信頼されるには一番いい方法だと思ってやったまで。それまでとは打って変わって、手のひら返してナナシを賞賛する人々を腹の底では馬鹿にしつつ、皆の期待に応える新たな救世主として振る舞ったのかもしれません。

■人間か、人非人か

ところで、このような「人でなし」とも言える心理や行動は、皆殺しルートでナナシと敵対する仲間たち、東京の人間たちが良くも悪くも「人間らしい」ことと綺麗な対照形を描いています。一方は、他者を信頼し、他者との絆の中に生きている反面、容易く他人に影響され、自分たちの価値観を揺るがす者は寄ってたかって攻撃する「人間」。もう一方は、誰にも振り回されることはないが、ただ自分の利益を追い求め、自分以外がどうなっても構わないという「人非人」。絆ルートが「人間」の道とすると、皆殺しルートは「人間でない者」の道に思えます。

作中、皆を裏切ったことを口汚く罵られたり、ノゾミやフジワラから「(かつて東京を救うため天井の上に残った)アキラの遺志を継ぐ」ことを半ば強要、あるいは期待されるシーンがありますが、あれこそとても人間らしい考えからくるもの。死と隣り合わせの殺伐とした東京であっても、むしろそうだからこそ信頼できる相手に掛ける期待は強くなる。また、自分が過去を受け継ぎ、今が未来へと続いていると確信することは、適切な自尊感情を持つことに繋がります(自尊感情=自分に価値があると思える感情。困難な状況に直面しても、自尊感情が高いと努力することができるが、自尊感情が低いと簡単に諦めてしまう傾向がある)。つまり彼らの反応は、「人間ならばしないことをなぜ平気でできるのか」「人間として当たり前のことを、お前はなぜしないんだ」という怒り、当惑の表れです。

しかし、思いやりや絆からくる義務感から自由な身にとっては、人間たちが重要視する絆なんてものに価値はないのです。

■おわりに

以上、ナナシがサイコパス的な傾向を持っていると仮定して、作中の動機や心境を考えてみた結果でした。よくまあ、これだけ妄想を繰り広げたなー。あと、ストーリーには他の解釈の余地もあると思うので、それはまた別に考えてみたいと思います。
ちなみに、皆殺しルートのエンディングには一種の寂寞感に似たものを覚えました。それは、神となったナナシが、刺激的なこともなく、死ぬほどに耐えがたい退屈さに飽き飽きした頃、今までの神々のように人間に殺される未来が見えたからかもしれません。
Pleasure Is All Mine

私こそありがとう
寛大な人間になることは
何よりも強い姿勢
私こそありがとう
しまいには解き放って
私を守る
漂う私たち

誰よりも与える人

私こそありがとう
私たちのような女は
誰よりも強くなる
宿主のように
迷ったら与えるの

迷ったら与えるの
迷ったら与えるのよ


Pleasure Is All Mine

the pleasure is all mine
to get to be the generous one
is the strongest stance
the pleasure is all mine
to finally let go
and defend me
we float

who gives most
who gives most
who gives most

the pleasure is all mine
women like us
we strengthen most
host-like
when in doubt give

when in doubt give
when in doubt give
しばらくこの歌詞の意味が分からなかったのですが、何となく"Desired Constellation"に似た系統なのかと最近気付きました"(Desired Constellation"は曲のアイデアのパクリについての歌詞です)。
Earth Intruders

私たちは地球への侵入者
地球への侵入者
木の枝を手に泥にまみれて

大混乱! 大虐殺!

侵入者がやって来た
私たちは落下傘兵
狙撃手たちの大暴走が
ブードゥーからまっしぐら

足を踏み鳴らして
行進して
疑り深い人たちを粉々にして土へ還す

降り注ぐ善きものが
尽きかけて 疑念が溢れ出る
降り注ぐ善きものが 尽きようとしている

地球への侵入者
私たちは狙撃兵
落下傘兵の群れ
欠かせない呪術

私は自分の骨に
電流を通してみた
それでもまだ彼らが好きだった
私も好きだった

金属質の大虐殺!
残虐!
風を感じて!

地球への侵入者
私たちは狙撃兵
落下傘兵の群れ
欠かせない呪術

あっちでは大混乱
大虐殺!
何をすれば でも掘って
土から骨を掘り出すの

泥の墓! 樹木!
恐ろしい溝の痕!

侵入者がやって来た
抵抗勢力の大暴走
私たちは砲撃手
欠かせない呪術

そして
たくさんの頭と腕をした
獣が転がって
強引に突き進む!

私たちは地球への侵入者
地球への侵入者
木の枝を手に泥にまみれて

(この一族にお許しを)

私たちは地球への侵入者
地球への侵入者
木の枝を手に泥にまみれて

地球への侵入者
木の枝を手に泥にまみれて
私たちは地球への侵入者

地球への侵入者
木の枝を手に泥にまみれて
行進する

進め

進め

進め


Earth Intruders

we are the earth intruders
we are the earth intruders
muddy with twigs and branches

turmoil! carnage!

here come the earth intruders
we are the paratroopers
stampede of sharpshooters
come straight from voodoo

with our feet thumping
with our feet marching
grinding skeptics into the soil

shower of goodness
coming to end the doubt pouring over
shower of goodness coming to end

we are the earth intruders
we are the sharp shooters
flock of parashooters
necessary voodoo

I have guided my bones
through some voltage
and loved them still
and loved them too

metallic carnage!
feriocity!
feel the speed!

we are the earth intruders
we are the sharp shooters
flock of parashooters
necessary voodoo

there is turmoil out there
carnage! rambling!
what is to do but dig
dig bones out of earth

mudgraves! timber!
morbid trenches!

here come the earth intruders
stampede of resistance
we are the canoneers
necessary voodoo

and the beast
with many heads
and arms rolling
steamroller!

we are the earth intruders
we are the earth intruders
muddy with twigs and branches

(forgive this tribe)

we are the earth intruders
we are the earth intruders
muddy with twigs and branches

we are the earth intruders
muddy with twigs and branches
we are the earth intruders

we are the earth intruders
muddy with twigs and branches
marching

we are the earth intruders
muddy with twigs and branches
marching

march

march

march

前に訳したものをちょっとお色直ししました。これはスマトラ島沖地震の際にビョークが飛行機の中で見た夢から着想を得た歌詞とのことです。
イラストについてのお話を。

真IVでは、キャラクターデザイナーが変わっただけでなく、ゲストイラストレーターによる新規悪魔が色々と物議を醸しました。まあ、金子悪魔じゃなきゃダメとか、クリーチャー云々とかは、ひとまず横に置いておくとして。私は真III以前の過去作はプレイしていないので、その辺りの伝統とは離れた立ち位置にいるわけです。しかし、それでも異質感を覚えたのは確か。それはどうしてなのか、漠然と感じていたことを文章にまとめて考えてみることにしました。

単純にイラスト単体として見た時、そこには単なる「絵柄の違い」よりも、更に深い違いがあるのではないでしょうか。

今回の比較対象として、四大天使などのデザインを行った雨宮氏のイラストを選びました。複数いるゲストデザイナーの中で最も独特なイラストかつ、重要ポジションの悪魔のデザインに起用されているからです。他のイラストレーターのものについては割愛します。

作中のほとんどの悪魔のデザインをしている金子氏と、今回ゲストだった雨宮氏のイラストの違いとは何か。それは「面の絵」と「線の絵」の違いだと言えないでしょうか。言い換えると、西洋的な絵と東洋的な絵という系統の違い、世界の見方の違いがあるということです。


(時期によって異なりますが、近年の)金子氏のイラストは、明らかに面の絵です。驚くほど要素が引き算されたフォルム、立体感を意識した塗り、デッサン重視で頭のなかで回転させたところがイメージ出来るような絵です。ちなみに本人曰く仏像ばっかり見てるらしい。

41ehod+YgvL.jpg
http://ecx.images-amazon.com/images/I/41ehod%2BYgvL.jpg?477530609X

キクリヒメ可愛い。

対する雨宮氏。要素は多め、全体のフォルムもですが独特な線の魅力で魅せるタイプの絵で、系統的には水墨画を彷彿とさせるものもあったり。今回書くにあたって雨宮氏の他のイラストを調べましたが、かっこいいですね。平面だからこその良さがあります。

20101118_1272441.jpg
http://nanatukaze.jugem.jp/?eid=378


amemiya.jpg
http://megaten4.jp/sp/story/amemiya.html

真IV版ラファエル。

これらはどちらがいいと優劣がつけられるものではありません。ただ、面と線の絵の違い、要素の足し引きの流儀など、割と正反対な絵が同じゲームの中に出て来ると、やはり合わないと感じざるを得ないのかも。

ちなみに今作のキャラクターデザイナー・土居氏のイラストは、ぱっと見は副島氏に似ているんですが、意識している面もあるのか、やはり金子氏の影響が見られます。そして、土居氏によって描かれた新規悪魔の絵にさほど違和感がないのは、絵柄が統一されていると言うよりも、線的なイラストが面的に「解釈し直されている」からなのではないでしょうか。

wall03_1280_720.jpg
http://megaten4.jp/spe/wall03_1280_720.jpg

右側の4体の天使が雨宮氏デザインの四大天使。

pic.jpg
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51LCPKzQOEL._SL500_AA300_.jpg

右側が雨宮氏デザインのとある悪魔。ほらそこ真ん中見るんじゃない。あとこれ宗教画だから。

その他、今回参加している篠原氏などは、3DCGイラストレーターでもあるし、絵の系統だけを見れば結構近いと言えるかも知れません。エンシェントデイとか。

以上、私が感じる異質感の原因を簡単にまとめてみました。世界観構築のためにはビジュアルって大事だと思うんですが、(ベテランとはいえ)何故違う系統のイラストレーターに依頼したのか、そこが気になっています(そういう意味では、今作に収録されている金子氏の悪魔絵の絵柄のばらつきも同様)。

広報でのモノクロでシックなイメージと、実際のゲーム画面のちょっと賑やかなイメージの乖離もそうですが、ビジュアルで統制が取れていない面が見られるのが少々残念でした。ということでまとめ。
メモ。アバチュのヒーホークイズ等の曲の無料ダウンロードページ(公式)。MP3ファイルのみダウンロードできます。
この曲、サントラに入ってないんですよね。もったいないことに。

http://web.archive.org/web/20061206085057/http://www.5pb.jp/records/works/exive/dds/dds.html
授業であるキーワードを知ってからというもの常々思っていたことがあるのですが、ペルソナ~トリニティ・ソウル~(以下トリニティ・ソウル)は原案となったペルソナ3を背景として作られ、そして読み解く性質のものではないのかということです。そのキーワードとは「間テクスト性(インターテクスチュアリティ)」、文芸批評の畑の用語ですね。

間テクスト性は、テクストの意味を他のテクストとの関連によって見つけ出すことである。……ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照することをいう。

Wikipedia 間テクスト性
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E3%83%86%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E6%80%A7


本来ならWikipediaからの引用は避けたい所ですが、手元にある参考文献よりまとまっていたので引用しました。全てのテクストは先行テクスト(プレテクスト)の引用であり、そのモザイク・変形であるとされます。テクストとは、この場合は分析の対象となる作品のことを指します。

トリニティ・ソウルは、ペルソナ3を先行テクストとして、その引用、変形から成り立っており、また解釈する際にもペルソナ3を参照し、コードとして読み解くことが求められるものなのでは? ということで、ただ単にペルソナが出てくる話というわけではないということです。コードとは読みのベクトルを示す指標のことで、例えばペルソナ3はタロットにおける「愚者の旅」というコードから読み解くことが可能です。また、「ペルソナ」と聞いた時、原作ゲームを知っている人と知らない人では連想するものが違っているはずです。

クリステヴァによれば、ある作品を読むとき、そのテクストが帯びている「コード」が介在することや、フィルターがかかったりすることがあるため、作家から読者へ直接意味が伝えられるわけではないという。
ロラン・バルトが、芸術作品の意味は作品じたいにあるのではなく、鑑賞者の側にあるのだという考え方を述べているが、これも間テクスト的な見方を観点を変えていったものとされる。

間テクスト性とは (intertextuality) 用語解説
http://i.impressrd.jp/e/2008/02/29/389


そもそもペルソナ3の派生作品がある場合、作り手も受け手も先行テクストからの影響を受けることは自然なので、意識的に先行テクストを取り込み、間テクスト性を際立たせたオリジナル作品にしたのではないかと思います。ペルソナ3が「原作」ではなく「原案」だという言葉の意味はそこにあるのではないでしょうか(タイトルの答えを文章半ばで言ってしまった)。

ここから先はネタバレを含みます。